東洋医学の治療法 流派

未開の時代は、本能治療に始まり、加持祈祷のまじないをもって医療の本体としたのは世界の東西と同じです。
6世紀前半頃になると朝鮮半島を経由して、日本にも大陸の医学文化が入ってきましたが、その後飛鳥時代に遣隋使、奈良時代に遣唐使として渡った僧侶が、それぞれの時代の医書または医術を持ち帰り、直接中国の医学文化が大量に輸入されるようになります。

しかしこれらの医術は貴族の間だけに行われて、一般の民衆がその恩恵に浴するまでには至りませんでした。また平安時代になっても僧医による加持祈祷は依然として行われていました。

時代が下がって室町中期に田代三喜が、明へ留学して当時隆盛であったの李朱医学を修得し、北関東の古河でその医学を立ち上げ、一般民衆に施すことで当時の中国医学を日本に根づかせます。

その頃、たまたま下野国(現在の栃木県)の足利学校に勉学に来ていた京都の曲直瀬道三は、田代三喜の評判を聞いて師事し、京都へ帰り、私費を投じて現在の医学校に当たる学舎「啓迪院」を開き、多くの医生を育て、諸国へ派遣させたことによりその医術が急速に全国に不及するようになり、多くの民衆がその恩恵をうけることができました。

道三の医学は陰陽五行説を背景としながらも李朱医学の単なる焼き直しではなく、自家の経験に照らして独自に処方を駆使運用することで、日本人向きの簡約なものに改めました。

李朱医学がややもすると陥りやすい、観念論に立脚する空理空論を排して、臨床に則した簡易な治療法を提唱しました。日本の医療が宗教的な支配を離れて純粋な医学学問として成立したのは、田代三喜と曲直瀬道三の功績と言えます。

漢方には流派が存在します。「茶道や華道の世界じゃないんだから」と思われる方もいるでしょう。また、この事が漢方を難しくさせている要因でもあります。

漢方の流派は大きく分けると漢時代の方法論に基づく古方派と金元時代李朱学の治療方針に基づく派後世方派、そして両派の中間を行く折衷派に分けられます。一方これらとは別に現在の日本では中国本土で発展してきた中医学という中国医学の系譜もあります。

古方派と後世方派では、名称だけ見ると、古方派が初めに興り、次いで後世方派へと派生していったように見えますが、実際は逆で、後世方の医学が先になります。

各流派のどこが違うのかといえば、基本となる陰陽虚実の考えに違いがあります。古方派は陰陽虚実を病の進行を知る病位(ステージ)として捉え、それに基づいて病勢を探ろうとしますが、後世方派は陰陽を人体の中で相対する二面として捉え、その調和の破れが病的状態になると考え、それらを経絡や臓腑にあてはめて病因を論じようとするところが違います。
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